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飛行缶 -SORA・TOBU・CAN-

デザインがカッコイイ缶を集め出したのが始まりでした。気づけば部屋中に大量の缶が。エピソードとともに整理しながら発表していきますので、おつきあい頂ければ幸いです。

15 パソコンの情報源 4

「POPCOM(ポプコム)」は、1983年に小学館から創刊。
当初からパソコンによるホビー色を強く出した雑誌で、

popcom2

他の雑誌同様に投稿ゲームのプログラムなどを掲載したほかに、
パソコン入門漫画を同時に複数本連載したり、
同社の漫画を題材とした投稿イラスト・CGを多数掲載するなど、
小学館という強みを活かして他誌との差別化を図っていた。

当時人気の高かった「うる星やつら」や「めぞん一刻」が
小学館であることもあって、それらのイラストやCGを使った
オリジナルカセットレーベルが毎号の付録としてくっついていたのも
他社には真似できないことだった。
(ま、徳間は徳間で「ナウシカ」の版権とか持ってだけどね。)

ええ、私もそれ欲しさに買いましたよ、ポプコム。

同時に他社の雑誌に投稿された小学館漫画のイラスト・CGなどを、
版権を理由に掲載を差し止めさせるといった独占的な措置もとっており、
他誌の読者などから批判を受けていた。

techpoli-urusei

今でも「ドラえもん」とか使うと、ディズニー並みにうるさいが、
小学館は昔から版権にうるさかったということだ。

「コンプティーク」は角川書店より1983年に創刊だが、
当時は隔月刊。 つまり2ヶ月に1回ということ。
キャッチコピーは「パソコンと遊ぶ本」。
「ザ・テレビジョン」の別冊として生まれたからか、
芸能界やアニメなど、他メディアの記事も多かった。

comptique2

パソコンについては、創刊から数年間はゲーム記事、
パソコン本体の購入ガイドなど、わりとマニア向けであった。 
他誌が取り上げないようなパソコンゲームの裏技を精力的に扱い、
テクノポリス同様パソコンゲームプログラムの改造手法も掲載していた。

途中からコピーが「戦うパソコンゲームマガジン」と意味不明に。
その頃からメディアミックスを主体とした内容になり、
マニアックというより、今でいうオタクな傾向が強くなってくる。
「ロードス島戦記」の元となったテーブルトークRPGのリプレイ記事や
読者参加型ゲームなど、テーブルゲームに関する記事、
ライトノベルなども掲載され、総合娯楽誌へと変貌していった。

これらの雑誌は、創刊当初こそ真剣にホビーを追求していたが、
1980後半からパソコンを取り巻く事情が少しずつ変わってきて、
そろって「ある方向」へ路線転換するのだが、
そのあたりについては、もう少し後で書くことにしよう。

つづく。

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14 パソコンの情報源 3

前回紹介したパソコン雑誌は、
わりと真面目というか、マニア向けの内容だった。
専門用語が飛び交い、プログラムテクニックの紹介などであふれ、
パソコンをゲーム機の延長として捉えていたライトユーザーにとっては
ちょっぴり難しく、時々買うけど毎月購読はしないといった感じだった。

それとは対照的に、ライトユーザー、ホビーユーザー向けの雑誌も
続々と登場した。

「テクノポリス」
「POPCOM(ポプコム)」
「コンブティーク」

私の中では、この3雑誌がホビーユーザー御用達の御三家だったと考える。
「コンプティーク」だけが現在も存続しているので、知っている人も多いだろう。

今日はその中の「テクノポリス」について。
「テクノポリス」とは「先端技術都市」しか「技術支配社会」という
れっきとした英語で、YMOの曲のタイトルなどでも用いられている。
「テクノポリス」略して「テクポリ」は3雑誌の中で最古参で、
徳間書店から1982年に創刊された。

technopolis2

創刊当初は、前回紹介した雑誌同様に真面目な科学雑誌路線だった。
わりと高度なプログラムテクニックの紹介など硬派な部分もあったが、
キャッチコピーが「ナイコンでもわかる遊べる」であるように、
パソコンを持っていなくても楽しめる内容、
あるいはこれからパソコンを買う人にとっての情報誌、
というのが基本スタンスであった。

この雑誌の特徴は、早い時期から「マンガ」を掲載したことだ。
「さとうげん(佐藤元)」というアニメーター&漫画家が描く、
ゲームの攻略法をストーリーマンガ形式で紹介するというもの。

techpoli-casette
  ↑さとうげん氏イラストによるカセットレーベルの付録

ちなみにさとうげん氏は、あの2等身ガンダム「SDガンダム」の発案者であり、
予想外に「SDガンダム」がヒットした時に著作権を巡って
バンダイと裁判で争ったが敗訴しているという経歴の持ち主。
個人的には発案者を大事にしてやればいいのにと思うが、 
そもそもガンダムがバンダイのものなので、その派生としての
SDに著作権を主張するのは、やはり難しかったようだ。

当時はパソコンゲームの著作権がけっこう曖昧な時代で、
ゲームソフトのレンタルやコピーという商売も堂々と存在していた。
そんなおおらかな時代だから、ゲームの攻略に留まらず、
例えば主人公を無敵にするとかを裏技のレベルではなく、
プログラムそのものを改造してしまうというテクニックが記事として紹介され、
たいへん人気があった。 
もちろんメーカーとのトラブルは少なからずあったようだが。

他にはテクポリは読者のページが充実しており、投稿が掲載されると
「テクポリクラブ会員」として、会員番号付きの会員証・バッジなどが
編集部から送られた。 
プログラムやイラスト投稿、手紙といった間接的な繋がりに留まらず、
読者が編集部に遊びに行って、そのままバイトとして働くケースもあったという。
こうした魅力もあって、私が最も長く定期購読していた雑誌であった。

ちなみに私もイラストが掲載され、会員証を持っている(笑)。

つづく。

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13 パソコンの情報源 2

1982年のマイコンブームとともに雑誌もどんどん増えていった。

最初は「月刊アスキー」の別冊として生まれ、
この年に月刊化した「月刊LOGIN(ログイン)」。

login

「LOGIN」とは今でも使うお馴染みのパソコン用語。
親雑誌「ASCII」とは対照的に一般的な若者向けの構成で、
独特な特集記事や、お笑い的なコラムが目立つ雑誌だった。
マニア向けの生真面目な雑誌が多い中で、その娯楽性が人気を博し、
全盛期にはパソコン雑誌初の月2回刊行を成し遂げている。
編集部内でパソコン、アニメ好きな少年を「お宅」と呼んだのが、
現在の「オタク」の始めであり、オタク文化の起源的存在とも言われている。

同年、「月刊マイコン」の電波新聞社から新たに創刊されたのが
「月刊マイコンBASICマガジン」。 略して「ベーマガ」である。

bemaga2

その名の通り、BASICプログラムの記事に重点を置いた雑誌で、
マイコンを買った青少年の登竜門的存在だった。
読者からの投稿プログラムも多く、私や私の友人の多くが、
BASICの習得においてどれだけこの雑誌にお世話になったことか。
定価300円という安さも、少年の財布にやさしかったなぁ。
後にゲームミュージックのプログラムも頻繁に掲載され、
それだけで別冊が刊行されたほどである。
また、ゲームの攻略法記事というのが当時の雑誌の花形でもあったが、
ベーマガ別冊の攻略本は今でも高値で取り引きされるほどの人気である。

さらに日本ソフトバンクが刊行した「Oh!PC」。
その名の通り、NECのPCシリーズだけの記事を扱う内容の雑誌。

oh2

同時に「Oh!MZ」と「Oh!FM」も刊行しているので、
新御三家メーカーを各雑誌で網羅するというものだったが、
特定のメーカーに特化した情報誌は、ユーザーにとっては
いらない情報が少ないわけで、これまた人気を博した。

「LOGIN」を除いた、このあたりの雑誌は硬派というかマニアックというか、
ヘビーユーザーの期待に答える内容のものとして君臨していた。

ちなみに、「Oh!」シリーズを出版した日本ソフトバンクとは、
Yahoo!JAPANやソフトバンク・ホークス、「お前にはまだ早い!」の
携帯電話のSoftBank、これらのソフトバンクのことである。
もともとは1981年にパソコンソフト卸しの会社として設立し、
現在でもゲームやコンピュータ関係の出版も行っている。
一時はソフト卸しのシェア8割を誇り、まさしく時流に乗った会社で、
この時代に急成長したんだよねぇ。

つづく。

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12 パソコンの情報源 1

マイコン(パソコン)ブームを支えたもうひとつの立て役者が、
「マイコン(パソコン)雑誌」であった。

今でこそパソコンに関する情報はインターネットによって
素早く簡単に入手することができるが、
当時は、マイコン本体やゲームソフトの新発売の情報、
ユーザー同士の意見交換や自作プログラムの発表など
すべて雑誌で知るしかなかった。
だから、数多くの雑誌が生まれたのもこの頃である。

私も自分のパソコンを買う前にいくつか雑誌を買って
性能の情報を仕入れたり、ゲームの広告やCG写真を見て
夢を膨らませたものだった。

日本で初めてのマイコン専門雑誌は
1976年11月に工学社から創刊された、
「I/O(アイ・オー)」の12月号だった。
I/Oとは「INPUT(インプット)OUTPUT(アウトプット)」のことで
基礎的なマイコン用語である。

io-ascii

続いて1977年(昭和52年)に創刊されたのは
(株)アスキー刊行の「月刊ASCII(アスキー)」。

同じく1977年創刊の「月刊マイコン」(電波新聞社)。

これに1978年創刊の「RAM」(廣済堂)を加えた4雑誌が、
マイコン黎明期を支えた存在であった。

micom-ram

それぞれの雑誌には、広告が多い、年少向け、
ワンボードマイコンの情報が豊富、自作ゲームプログラムの投稿が
充実している、などといった違いや特色があった。
端的に分ければ、専門的な「I/O」と「ASCII」に対して、
やや平易で一般向けな「月刊マイコン」と「RAM」って感じかな。

そして1982年にはマイコンブームとともに雑誌もどんどん増えていった。

つづく。

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11 OSの働き

こうして、御三家との争いに一時は破れたメーカーも
MSXによってパソコンブームに乗ることに成功した。
MSXが普及した理由は、もちろん「統一された規格」である。
これは、性能が統一されているというより、
プログラムが統一されたことによるメリットが大きかった。
自分と友人のパソコンのメーカーが違っても、
それがMSXであればゲームやプログラムの交換ができたのだ。
ソフトを供給する会社側としても、「MSX用」として作ればよいので、
ゲームソフトの数も御三家を凌駕するほど多かった。

MSX-2game

このプログラムの統一を実現したのが「OS」の存在である。
「Operating System(オペレーティング・システム)」とは、
「プログラムを走らせるためのプログラム」である。
パソコンだけでなく、プリンターやスキャナーなど、
様々な機械がいろんなメーカーから発売されており、
プログラムとはその機械に「こう動きなさいよ」と命令するものである。
しかし、メーカーや使用している部品が違えば、その命令方法も異なってくる。
例えば、使うプリンターのメーカーが変われば、プログラムも変える必要がある。
その時にユーザーがいちいちプログラムを変えなければならないのでは、
便利な機械も面倒なものでしかない。
そこで、どんなプリンターだろうと、どんなスキャナーだろうと、
「同じ方法で動かせる」ようにしてくれるのが「OS」である。
MSXには、これが始めから組み込まれているというわけだ。
この「OS」を介した状態でユーザーは使うわけだから、
「どのプリンターをつなげても同じ方法で操作できる」ようになるわけであり、
「どのMSXでも色んなプリンターが同じように使える」というわけである。

OS system

もちろん、御三家のパソコンにもOSのようなものはあった。
それが「BASIC言語」であり、同じメーカーのパソコンであれば
だいたい同じBASICプログラムで動かすことができた。
しかし、このBASIC自体がメーカーごとに違うので、
シャープ用のプログラムを富士通のパソコンに入れても走らないし、
NECに買い換えたら、NEC用のBASICを覚え直す必要があった。
MSXは、そうしたメーカーごとのプログラムの違いをなくすために
共通OSを採用した、というわけである。

現在の例で言えば、全く基本設計が異なるはずのMacでも、
Windows用のゲームやソフトが使えることである。
これはMac OSに、Windows用ソフトが使えるプログラムが組み込んであるから。
だからOSそのものには、Mac用とWindows用がある。
Mac本体にはMac OSを入れるのであって、Windows OSは入れられない。

Win-on-Mac
        ↑Macの画面の中にWindowsの画面がある

現在のパソコンでは当たり前の「どのパソコンでも同じソフトが使える」が、
初めて実現したのがMSXだったのである。

もし当時に御三家パソコンに対応したMSX OSがあったら、
御三家パソコンでもMSX用のゲームが遊べたのに…とも思うが、
性能が著しく違うので、かなり複雑で高価なOSになったろうし、
何より処理速度が遅すぎて使い物にならなかったろう。
いや、それより御三家のプライドが許さなかったかな?

ともかく、MSXという新たな規格の参入により、
パソコン業界はさらに混迷の時代へと突入していくのである。

つづく。


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